私が物心ついたとき、家にはたくさんの人がいました。工場に行けばさまざまな人が働いていて、私はそこを遊び場としていました。
いま私は、人が成長し、幸せになれるナンバーワン企業をめざしています。その考えに至った背景には、私の生きてきた道のりが関係しています。少し私の人生を振り返り、お伝えしようと思います。
私は1980年(昭和55年)、大阪で生まれました。家には親戚も一緒に住んでいて、私は総勢10人を超える大家族の中で、たくさんの人に囲まれて育ちました。
光製作所を創業した祖父は、山口県の出身です。かつて鉄鋼産業が盛んになったとき、大阪に出てきて工場を営み始めました。当時工場があったのは西区境川。ネジ産業や木材業が栄えており、下町の雰囲気が漂っていました。
工場に行けば、さまざまな人が働いていました。幼いころの私は、そこで遊ぶのが好きでした。もう一つ大好きだったのがゴミを回収するパッカー車。音楽を鳴らしながらパッカー車がやってくると、うれしくて飛んでいって見ていました。車体の一部が回転しながらゴミを回収していく機械的な動きが、とても面白かったのです。
男の子が好みがちな戦隊ヒーローものには全く興味なし。いわゆる「働く車」に魅力を感じる子どもでした。
創業者の祖父は、子どもの私から見ると「こわい人」でした。仕事に対してとにかく厳格。取引先の請求書が1円でも違っていたら怒鳴り込むような人でした。
かと思えば、まわりの人に気前よく奢るような豪快な一面も。創業当時から祖父といっしょに働いてきた社員は、そんなところを慕っていました。
祖父は「買う人の身になって製作しよう」という思いを軸に、ものづくりを行っていました。産業用部品はいまでこそ少量多品種ですが、高度成長期のころは、同じ物を大量生産するのが当たり前でした。祖父はその頃から製品を買う人のことを考え、そこにこだわっていたようです。
一方、二代目社長だった父は、どちらかといえば真面目なタイプ。営業よりも事務方の几帳面な仕事が得意でした。祖父とは対象的だったので、折り合いをつけるのが大変だったのではないかと思いますが、バブル期の荒波を乗り越えられたのは、父の几帳面さからくる采配があったからだと思います。
私が中学生のとき、祖父が他界。後を継いだ父は、相当なストレスを抱えていたと思います。でも当時の私は自分のことで精一杯。家業を思いはかる余裕などありませんでした。
その考えが変わったのは、大学生になってからです。父が病気になり、自宅の車を売らないと社員さんのボーナスも払えない状況になったとき、「自分が会社を支えないと」という思いがわいてきました。二十歳を過ぎたときには、すでに「自分が継がなければいけないかもしれない」という使命感を持っていました。
大学を卒業し、私は修業の意味も兼ねて、三年間ほどTCMという機器メーカーで働きました。この三年間は楽しかった。ものづくりの達成感とともに、多種多様な人と関わることができたからです。
TCMの時代、まわりの先輩や上司は、「いつか家業を継ぐ時に困らないように」と、私に技術や営業のノウハウだけでなく、経営者の立場や従業員の意見など、いろいろなことを教えてくれました。
ある人は「従業員は働かんもんやから、それを考えて社長をせな」と言ってくれました。その人もまた従業員の一人だったのですが、「人は自分の思うようには動いてくれない」という意味を込めた助言だったのだと思います。
また、関連子会社の社長が、残業が終わったあと、休憩テーブルで一人缶コーヒーを飲みながらしょぼんとしている様子を見たこともあります。
人の上に立つ人、その下で働く人、会社に出入りする取引先、協力会社の人々etc…。その一人ひとりに悲喜こもごもがあり、人生がある。それを目の当たりにしました。私が人に興味を持っているのは、こうした体験が深く関係しているのかもしれません。
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